かわむらの
日々

帯合わせ

節分の思い出

既にテレビ等でも報じられていますが、今年の節分は1日早く本日2月2日に行われます。これは明治30年以来、124年ぶりのことだそうで、そのメカニズムはいくら読んでも私の頭ではいまいち理解が出来ないのですけれど、大変珍しいことには変わりないのでしょう。

と思いきや、4年後の2025年には早くもまた2月2日節分となり、その後も度々そういう年があると言うじゃありませんか。そのメカニズムも全く理解が出来ないので、それはそういう事と納得して先へ進みます。

ここ最近は毎年、当地の氏神様である富士山本宮浅間大社の節分行事に参加させていただいておりましたが、今年はコロナの影響で行事は行われず。ご祈祷とお下がりをいただきにお詣りだけ行かせていただきました。例年、大相撲の関取を招いて賑やかな社も今日は落ちついたものでしたね。豆はかなりの量を用意していたらしく、家族全員で年齢を何周分か食べても間に合わないほど頂いてきました。今夜はこれを鬼どもに嫌と言うほど撒いてやります。

節分の豆撒きというと、自分が小さかった頃を思い出しますね。玄関から外の方に向けて豆を撒いたものですが、幼い自分は外の闇の中にいる鬼が想像できて、いつも必死に豆を撒いたものでした。両親に「よし、これで今年も鬼はいなくなった」と言われても容易には信じられず、玄関とその外が気になって仕方なかったものです。

要するにそれは、暗闇への恐怖心ですよね。洋の東西を問わず、古来から人は視覚を機能させなくする闇に恐怖を抱いてきたと言われます。西洋で言う悪魔、我が国の妖怪や幽霊の登場する舞台も例外なく闇夜です。現代と違い街の明かりもない時代には、今では考えられないほどその恐怖心はリアルなものだったでしょうね。私が子供だった昭和後期であっても、古い住宅の玄関とその向こうに広がる夜の闇は妖しい想像力を逞しくするだけのものがありました。今はそこにLEDライトが煌々と光っていますものね。百鬼夜行も出るに出られないでしょう。世の中見えすぎるのもどうなのかなと思いますね。

今日の組み合わせはそんな「闇」をテーマに。

節分の鬼も妖怪も出てきませんが、極濃い墨色に染め上げた千切屋の信州紬ちりめんに、醒ヶ井の染帯「篝火」です。篝火が演出する朦朧とした明かり、といったイメージを表現してみました。

飽くまで闇夜の表現ということに特化しての紹介ですので、細かいところに突っ込みを入れるのはご容赦ください(篝火って源氏物語だし、秋の話だし的な)。やはり闇があってこそ光が際立つということに目を向けて、上手くまとめたと評価いただきたいところであります。

現状の世界も言うなれば闇のようなものですけれど、小さな明かりでも絶やさず希望を持って行きましょうというメッセージも込めて、見てやっていただければ光栄です。

 

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